【歴史】富裕層をひきつけるヨーロッパ・ラスベガス型カジノ

ラスベガスカジノをつくった二人の男

ラスベガスカジノをつくった二人の男

 

1) ハワード・ヒューズ

 

1905年生まれ。

 

映画産業、航空産業に一大企業グループを築いた実業家。

 

映画では、『地獄の天使』『暗黒街の顔役』などを製作し、
数々のハリウッド女優と浮名を流す。

 

また、航空産業では、29歳で時速567qの航空機、33歳で
約4日間での世界一周を達成し、いずれも世界新記録となった。

 

 

42歳の時に、巨大な木製飛行艇スプルースグースを飛行させたが
20秒で墜落し、それ以降、表舞台から姿を消した。

 

 

1965年、自身の航空会社『TWA航空』を$5億で売却し、
1966年より3年間、デザートイン(現・ウィンラスベガス)ホテルの
スウィートルームに泊まり込む。

 

長いことカジノ客室を占領されるのをみかねたマフィアから
退去を申請されたが、$1320万でホテルを売却してしまう。

 

さらに、新空港の建設や、TWA航空の売却利益にかかる税金対策として、
カジノ、ホテル、会社、土地など、ラスベガス全体の買収に乗り出し、
フォーチュン誌の世界の企業長者番付でトップになるなでになった。

 

買収は、ネバダ州政府が独占禁止法を施行するまで続いた。

 

 

この買収劇をきっかけに、ラスベガスのホテル経営者たちも、
次々にマフィアと手をきり、カジノ業界のクリーン化が進み、
ラスベガスに新しい風が吹き込むことになった。

 

ただし、一方では、政府のマフィア撲滅運動の活発化によって、
マフィア自らラスベガスを手放したとも言われている。

 

 

1970年、ジーンピーターズと離婚
1976年、ヒューストンへ向かう自家用航空機内で、70年の生涯をとじた。

 

 

『アビエイター』 ハワードヒューズの映画はコチラ (Amazon)
『アビエイター』 ハワードヒューズの映画はコチラ (楽天市場)

 

 

 

2) ベンジャミン・シーゲル

 

1905年ニューヨーク生まれ。

 

『ストリップ通り』『フラミンゴホテル』を創り上げたギャングで、
あだ名はバグジー(虫けら)。
本人は、このあだ名を非常にきらっていたという。

 

10代で、恐喝、傷害、強盗、強姦、殺人などを犯す。

 

32歳の時、ニューヨークマフィアの命令により、ロサンジェルスに移り、
西海岸のマフィアを統括し、麻薬の密輸、競馬場経営などにより、
巨万の富と権力を得た。

 

そして、ハリウッド女優のバージニアヒルと、ビバリーヒルズで
同居生活を送る。

 

その後、マフィア組織の協力もあり、当時砂漠だったラスベガスに
ホテルを建設。

 

しかし、建設に妥協をゆるさなかったバグジーは、$100万の資金を
大きくこえた$600万もの建設費をかけ、長い年月の末、
ようやく完成にこぎつけた。

 

ホテルの名前は、恋人のバージニアヒルのあだ名をとって
『フラミンゴ』ホテルと名付けられた。

 

1946年12月26日、ホテルオープン。

 

しかし、この日、砂漠には珍しい大雨がふりそそぎ、チャーター便が
欠航。その後も客足は遠のき、わずか2週間で一時休業に
おいこまれた。

 

その約5ヶ月後、ようやく客が入り始めたが、赤字経営が続き、
$600万もの大金を損失させたバグジーは、その責任をとわれ、
1947年6月21日、組織に暗殺される。

 

しかし、バグジーの死によって、フラミンゴホテルは有名になり、
砂漠のリゾートを一目見ようと、多くの観光客が押し寄せることに
なった。

 

その後、ホテルは様々な人の手にわたり、
1994年に開業当初の建物をすべて壊し、新築開店にいたった。
現在でも、一流ホテルとして、その名を刻んでいます。


ホーム RSS購読 サイトマップ
カジノの歴史 オンラインカジノの歴史 二人の男 日本のカジノ(1) 日本のカジノ(2)